To:チームメンバーのみんなへ
哲学者アリストテレスは、
「共通善」という概念を提唱しました。
これは、個人とか組織にとっての善ではなく、
国家にとっての善のことを指します。
この共通善は、最近ではとてもウケが悪いのです。
その理由は簡単で、これだけ多様化が進んだ社会では
仮に誰かが共通善(という道徳)を決めたとしても
それに反対する人もたくさんいるからです。
そして、反対までいかなくとも、
その共通善を受容できない人にとっては
「善」どころか、ただの足かせだからです。
ですから、共通善の定義はとてもむずかしい。
しかし、共通善(国家としての善)ではなく、
個人や組織としての善であれば
定義は簡単なはずです。
すくなくとも、私達について言えば、
理念や価値観、ビジョンなどの形で
「組織としての善」がすでに存在しています。
ご参考:エッセンシャルの理念
もし現状の「組織としての善」に対して
疑問や違和感があるのであれば、
誰でもその更新更生を提案できます。
また、どうしても「組織としての善」と
自分の価値観が相容れない人がいたら、
チームを去ることもできます。
そして、ここで問題が出てくるのです。
エッセンシャルでは、チームメンバーに対して
「好きなことをやってよい」という自由を
“できる限り”保証しています。
しかし、レアケースではあるのですが、
その自由が認められない場合が存在します。
それが、「組織としての善」に
明確に反しているときです。
たとえば、巨人の肩に乗っていない行動は、
いくら自由に行動してよいと言えども
私たちのチームの中では認められないわけです。
もちろん、チームとしての善と、
個人の自由を両立する方法は探しますが、
それでも見つからないときもあるでしょう。
その場合は、チームの外で自分個人でやるのがよろしい。
これは物理学で考えるとわかりやすいですね。
各メンバーが自由気ままに行動してしまったら
チーム内のエントロピーが増大しまくってしまいます。
私たちのチームは1つの生命体ですが、
ということはチーム内での
エントロピーが減少するはずです。
このエントロピーを減少させるエネルギーこそが、
「組織としての善」になります。
もし仮に、「組織としての善」が機能せず、
チーム内のエントロピーが増大し続けて
チーム外のエントロピーと同じになったとき、
エッセンシャルというチームは死んだと言えます。
つまり、各メンバーが自由気ままに行動してしまったら
チームは死んでしまうのです。